昭和48年2月3日 朝の御理解
                                             中村良一
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」



本当の信者を、お互い目指さなければならない。けれども、これは、やはり、あの、難しい事です。話を聞いて分かるという意味だけであったら、あれもおかげである。これもおかげであるという事は、あー、分かるのです。ね。特に、合楽で信心の稽古をなさっておられる方たちなんかは、ここんところは、よう理屈の上では分かっておられると思うですね。あれもおかげ、これもおかげ、一切が神愛とか、ね。また、より、おかげを下さろうとする神様の働きなのだから、その難儀も。だからそれを、修行だと。また、事実が修行なんだから。修行として、修行と思うて受けよりますというものじゃなくて、修行と受けるいき方を稽古しておられるのですから、んー、良く分かられると思うのですけれども、本当に、例えば、あー、本当に一切がおかげという事をです、もう、心の底から、そう感じられるという事。ね。そこに初めて、有難い、勿体ないと言う世界があるわけです。勿論、有難い、勿体ないの世界ですから、あー、勿論、その、物やら、金やら、例えば、難儀というものを感じんで済むほどしのおかげが伴うて来るのは勿論です。ね。ですから、大変な、いわば、難しい事なのですけれども、そんなら、あー、そのままで良いという事じゃないです。やはり、それに取り組まなければいけない。本気に、そういう事にならなければならない。
昨日、お食事の後に、テレビを見せていただきよったら、丁度、あの、岡田淑子さんが、あの、ソビエトから帰ってきてます。それのなんか、ある何とかという、女流の作家の方とこう、一問一答やってるのが、テレビに出てました。そして、話しておりますのに、えー、恋は命だとか命がけという事を皆が、こら、誰しも言い古されておる事であり、そう言いますけれども、これは、岡田淑子さん、あなたを持って、初めて、この言葉は言えれる言葉ですよねと言うて話しておりました。ね。恋のためには、例えばあの時代にです。国境を越えて、好きな人と手に手をとって、シベリアに渡ったんです、ね。その後、何回もの、おー、まあ、恋をしたでしょうけれども、その都度都度がです、もう本当に、命がけと、それをもう、実際、身を持って、その、やりぬいた人だというふうに言ってました。だから、恋は命だとか、命がけだとかと言うけれども、これは岡田さん、あなたをして言えれる言葉であってというふうに言っている。んー、なるほど、そうだなと思います、ね。私はあの、昨日、ある方の、お取次ぎを、大変な、切実難儀な問題をお取次ぎさせて頂いたら、お手引きという事を頂いた。お手引きという事は、一般にあの、お導きをする事をお手引きというけど、私が頂くのは、その、神様が手を引いて下さるという意味に頂くんです。ね。ですから、そういう、例えば、どうにも出来ない煩悶というか、悩みという時には、先ず、どうして良いやら分からんのですから、ね。えー、神様に手を引いてもらうと言ういき方になるより以外にはないですよと。自分で、右が良い。左がよい。それすらが迷っておるし、分からんし、いうならば、盲目と同じなんです。そこで私は思うた。その岡田さんの言いよった、その、恋は命だとかというように、恋は盲目だとも言うのです。ね。ですから、私は、信心も、やはりそういう、この、信心は命だという人もある。いや、命以上だとが、実は本当なんでしょう。ね。だから、信心にもやはりです、そういう、その、おー、信心は、ある意味において、ね。盲目にならなければ駄目です。どんなに理知的な、いわば、理性に勝った人であってもです。本当の信心になって、いわゆる、信心にぼうけると申しましょう。はあー、あっちはもう、信心にぼうけちあるけんもう、金光様ち言うたらもう、一も二もなかと言うような頂き方を、合楽の方達は、そういう人達がおいいです。それが有難いですね。そげんとでなからなければ、例えば、道の力とか、教会の力になりません。自分のこつばっかり考えとるような人達が、どれだけ集まったって、大した役に立ちはしません。ね。やはり、ぼうけとる人達、ぼうけるくらいなところをとおらせて頂いておる人でなからなければ、本当の、いわゆる、神様のお役に立つような事は出来はしません。ね。神願成就のために、そのひとつの運動員にでもなろうかと、ね。ある意味においての宗教革命というような言葉を持ってするならばです。その革命の運動員にでもならしてもらおうというくらいなね。ひとつの信心の熱情というものは、ぼうけとらなきゃ出来るこっじゃありはしません。家の事考えたり、あのこと考えたりしよったら出来るこっじゃない。ね。けども、私は、今日はここで思うのにです。あれもおかげ、これもおかげと分かるためにはです。頭で分かるのではない、話を聞いて分かるのではない、ね。実際、自分が、なるほど、信心はある意味において盲目にするほどしの物を持っておる。その、盲目になったものが、開眼したときに、初めて今、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたときである。いうなら、本当の意味においての、信心に開眼したときなのである。ね。開眼するから、今まで見えなかったところが見えてくるから、はー、それもおかげ、あれもおかげという事が、はっきり、そこで、おかげという事が分かるのである。知ったおかげより、知らぬおかげが多いと仰る、ね。その知らぬおかげというところがです、はっきり見えてくるのです。おかげというのはもう氷山の一角だと言われております。頂くおかげと、そのおかげの根というものは、まあだまあだ、大変な事なんです。けども、それが分かるというほどしの信心ですから、もう、有難いと言うても、有難いの値打ちが違う。私は、今朝から、お礼とか、お詫びとか、という事、また願いという事も成されるわけですけれども、せっかくお礼を言うなら、お礼が届かにゃいかん。お詫びをするならば、そのお詫びを聞き届けていかにゃいかん。ただ、どうぞ、相すみません、有り難うございました、どうぞお願いしますと願いいれ、詫びをしておっても、それが交流する。ただ、自分だけが悦に入っておるという信心では駄目。ね。いうならば、神様も喜んで下さるという事。ね。そこでです、その、例えば、お詫びならお詫び、お礼ならお礼、願いなら願いがです、ね。そういう、神様と交流する喜びが、神様と私共との中に交流する。ね。
今日はもう、何回も大きなおいさみがありましたですよね。あの、ここで。私が、神様と交流するたんびに。願うこと、詫びること、ね。または、お願いをすること。その交流のたんべんに、もうあの、ここの、こう頭を下げとります、この板張りに付くのです。激しいおいさみでした。ね。ですから、なら、皆さんも、ただ、詫びをした、お礼をした、お願いをしたという事が、例えば、交流することのためにです。ほんなら、お詫びの印に修行せないかんのです。ね。ただ、詫びただけじゃいかんのです。お詫びの印に修行するところからです。必ず交流してくるです。はー、お詫びが許されたという、お礼の印に修行せにゃいかんです。ね。それをね、実行致しておりますと、通うてくるです。神様が喜んでくださったな、という神の喜びが、こちらの喜びに通うてくるです。願いでもそうでしょう。五つの願いをなさるならばです、ね。決して、例えば、不摂生な事は致しません。大酒大食は致しません。決して、人を責めるようなことは致しません。金輪際、無駄遣いのような事は致しませんと、願いをするからには、そういう、一つの条件を持って、願う条件というのがね。それを聞き届けて頂く事のために、皆さんが修行なさっておられるでしょう。それが必要なんだという事、ね。そういう信心をなさらなきゃならない。同時にまた、知ったおかげより、知らぬおかげ、見えるおかげより、見えぬおかげが分からせて頂く事のためにはです。私共がです。本気で、ね。ぼうけても見なければいけません。ぼうけれるほどしの有難い、勿体ない。もうそこにはね、惚れて通えば、千里も一里という事である。ね。暑い、寒さを感じんほどしのことであり、という事になるでしょうが。それが、一生懸命というのです。岡田淑子さんの、言うなら、貴方の恋こそ、ね。裏づけがある。あなたが、みんなが誰でもいう事、恋は命とか、命がけとか言うけれども、貴方こそ、それを身を持ってやりぬかれた方。その裏づけを持っておられるからというふうに言っておられますように。私共の信心でも、やはりそう。ね。一生懸命というけれども、一生懸命の裏づけというものが、なからなければならん。そこに、本当の意味においての信心の開眼がある。開眼する。いうならば、分からない。もう、五里霧中。どうしていいやら分からん。悩み苦しむ、そこで、親先生任せと、言うならば、神様のお手引き、手を引いて貰うて、やらせて頂いておるうちに、感も強うなり、いよいよ、感が強うなって行くだけではなくて、開眼のおかげを頂いたときが、初めて、信仰的開眼という事が言えるんだと、私は思うですね。そこでです、私共は、先ずはね、その目に見えるおかげですら、おかげと思っていないという事実があるということですよ。ね。先ず、だから、目に見える、あれを思い、これを思い、目に見えてる、おかげが。それをね、おかげと実感させていただいて、ね。喜びの御礼の信心に、一段と進んでいかなければならんのですけれど。見えてるおかげですら、いわば、見えていないというような、これは、んー、相済まんことですけれども、お互いそういうところがあります。はっきりいただいとるおかげ、けれども、なかなか、この辺のところが難しい。ね。お商売なんかなさっておられる。本当にお繰り合わせを頂く、本当に主人が、あー、おかげ頂いて、お繰り合わせ頂いてという。そすと、店員さんやら、その、家に使われとる人達はです。親父が、おかげおかげち言うともう、馬鹿んごたる感じがするらしいですね、心の中で。もう、おどんどんが働いたつは、いっちょん認められとらん。もう、家の親父ばっかりはもう、みんな、金光様のおかげ、金光様のおかげち言うちから、というような事になってくる向きもありますよ。だから、こういうような場合はね、やっぱり、皆さんのおかげでと言わにゃいけんです。皆さんが、頑張ってくれたきん、今月は成績が上がりましたよと、ね。そして、自分の心の中には、神様のおかげと実感させて貰うて、そうして行きよるうちにです。番頭さんたちも、みんなですね、店の人達も、やっぱ、家の主人が一生懸命しなさる。やっぱ、こげんとがご利益ちいうとじゃろ、やっぱおかげ、やっぱおかげ頂くばいと、信心の無いものまで分かってくる。というようなおかげを頂かにゃいけませんね。けども、自分がおかげと実感しとるもんですから、はー、やっぱ、おかげじゃろがのち言うもんじゃけ、一生懸命働いた番頭たちは馬鹿んごたる。そういうところがあるですよ。これは、信心させて頂くものと、信心のない者との、その、何ていうですかね、その、関係においてね、本当に、おかげを実感して、そして、口には、そう言わなければならない事もある。
昨日は、私は、午後の奉仕の時でした。北野の秋山さん達が、親子三人でお礼参拝してきた。改まって、いわゆる、御礼に出てきたわけです。この頃から、長男の、おー、嫁が、ちょっと身体が具合が悪かった。具合が悪かったというよりも、もう、お医者さんは、これはもう、百人が百人いけんち言うた。はっは、駄目という事を言われた。だから、あんた方は、金光様の信心さっしゃるきん、もう、金光様に、一生懸命お願いせんのち言わっしゃった。いうなら、突き放されたような事でした。ね。そこで、いわゆる、光行さんも、大体、信心はあるとですけれども、こら、僕が本気にならにゃいかんと思うて、それから朝参りを始めた。全快のおかげを頂くまではと、朝参りをしてくる。お父さんも参ってくる、お母さんも参ってくる。みんなが、その事を一生懸命、えー、お願いさせていただく。段々、おかげを頂いてくる。それで、えー、お医者さんに、昨日は、まあ、行くお届けがあっとったから、まあ、安心が行くようにお届けをしときましょうといった。ところが、そのお医者さんの言われることが、まあ、これは、具体的に、もっと言うと、もっと素晴らしく分かるでしょうけれども、まあ、あらかじめの所を聞いて頂くわけですけども。お医者の言われることは、これは、初めから見立て違いじゃったじゃろという事。それで、その、嫁後が帰ってきてから、私がつはもう、悪かつじゃなかったげなというふうに言うて帰ってきた。見立て違いじゃったげなという事。けれども、あんた、あげん事実、悪かったじゃないのと。ああいう血が出たり、ああいう事になったり、ああ、でもこうじゃったじゃないのと。それがあんた、見立て違いてんなんてんち言うごつがあるもんの、そりゃ、おかげがち言うたっちゃ、かてっぽは、信心が無いから、おかげと分からん。もう、第一にその、夫婦は一心同体と言われるくらいじゃから、お前の半分な俺だという気持ちで、一生懸命朝参りをしてきた。その修行させて頂いた光行さんがもう、治まらんわけです。もう、こげなおかげいただいとって、夫婦が何か、ぶっすりがす、夫婦喧嘩しよるげなもん。それから、お母さんが、どうして、あんたどんな、そげなふうして、それがあーた、こげなおかげいただいとって、おかげじゃなかごつ、こん奴が言いよるけんでというよな事だったらしいんです。ね。そこで、まあ、お母さんが、懇々と言うて聞かせたから、まあ、納得が行ったか行かないか分からん、行くはずはないですね、信心が無いのだから。お医者さんに言われりゃ、それが本当だと。ね。それであの、まあ、とにかく、お礼参拝させて頂こうと言うて、お礼参拝させていただいたが、信心がなかけん、そら、仕方が無いもんねと。けれども、光行さん、あんたがおかげと実感しとるならね、そのおかげが、あんたが実感しとりゃ、家内も半分な、おかげと実感しとるとと同じことじゃけん。あんたが、有難いと思うてさえおりゃ良かがと言うて、申しましたことでした。そして、まあ、色々、お話をさせて頂いた事でしたけれどね。例えば、私共の幹三郎が、肉腫という事であった。もう、百人の、いや、えー、三人の権威の先生方が、もう、こういうものを、今までほったらかしといたという事は、もう、ほんと、親の顔が見たいと言うて、あの、小野先生なんかに、見舞いに行って頂いた時に言われたくらいであった。ね。富永先生なんかは、その権威と言われる先生でもです。お母さん、これはもう、九十九パーセント駄目ですよと。後に残っておるのは、奇跡があるだけ、お母さん、しっかり信心してください、拝んでくださいと、富永先生が言わっしゃるほどしの病気であった。ね。ところが、実際に開けてみた。ところが、これは、肉腫ではなかったという事になった。けれども、こんな病気は、世界中に、まだ一遍も例がないというような病気であった。そのために、わざわざ、あー、学会が開かれたぐらいであった。ね。それで、そのいろんな発表がなされたその、幹三郎の病気についての、んー、ちょっと今まで例の無い病気ですからね。それが、だから、ほんなら、私共としてはです、本当に、神様の御働きというのは、こういう例は幾らもありましょう。レントゲンで見た時には、必ず、そこに、例えば、松岡さんところのあれなんかね。空気銃の玉が入ってる。ちゃんとあったんです、そこに。ね。けれども、夢の中でお取り祓いを頂いたとか、ね。肉腫であったのが、もう、頭に上り、下に下だっとるはずのつが、もう、ここんところの、頬のところに、全部、固まって、集まって、肉の塊のようになっとったという事実やら。しかも、それが、病気が。もう今までかって、医学上の上にないほどしの、学名の付けようがないというような病気に変質してしまっておったというような事をです。私共は、おかげと思う。だから、本人もそれを、おかげと思うからこそ、あと一年で高校が、浮羽高校の建築科におりましたから、先生が、何回もこられ、友達がみんなで、とにかく、永い間休んどったけれども、おかげで、成績が良かったから、無事に上がられると、お前の成績だったら。だから、もう一遍、学校に復学するようにと言うて、もう、とにかく進めに見えましたけれども、一番最後には、お父さんも立ち会ってくださいという事でした。だから、応接間で、私も、あの幹三郎の言い分に、お父さんもどうぞ、せっかくのとじゃから、もう一年やって下さいという話であった。そしたら、幹三郎が申しました。僕は無い、もう、無い命を助けて頂いておるのだから、これからの余生をね、神様の御用に、もう、あの奉仕することに決めたと言うて、もっとそれを、あげな無口な男がですね。それをもう、言って退かしたんです。だからあの、もう学校のほうはもう、全然、さらさら未練がないからと。だから、君がそげん一生懸命ならば、もう進めんと言うて、それっきり見えませんでした。ね。だから、そん時、僕のとは、肉腫じゃなかった、あー、けん助かったと、幹三郎が言うたらどうだろう。その、例えば、感動がです。ね。まだ、十六か、七の、おー、彼が、御道の教師にでもお取立ていただこうという気になって、信心のほうに修行するようになった。ね。ですから、そういう例は幾らもあるよと。あんたのんだから、それは、本当のおかげ。もう、そういう、もう、百人が百人駄目て言わしゃったじゃないの。ね。だから、あんたげな金光様信心するきん知っちゃるわけです、色々体験を頂いとりますから。だから、あんた、合楽の金光様にお願いせんのと言われた。そこから、一家中の信心が、また生き生きしてきた。で、そういうおかげを頂いたら、私がつは、お医者さんの見立て違いじゃったごたるふうに、嫁が言うて帰ってきたから、治まらんとがこっちやったわけですね。光行さんじゃった。いや、お母さんも、やっぱ、それを感じたでしょう。ほんに、信心の薄いもの、無いものばっかりは仕方がない。本当に、こんな、目に見える、いわゆる、おかげを頂いておっても、おかげをおかげと感じきらない。それが、信心の初心のときであり、信心の無い者の姿なんです。ね。五つのおかげを頂いたら、とんおもお礼を申し上げよ。とんおのお礼を申し上げたおかげだったら、二十も頂いたように喜べと。実は、その二十喜んでも、実際は喜び足りんのだと、本当は。ね。そうすればね、例えば、五つのおかげをとんおとお礼を申し上げれば、次には、とんおのおかげになると仰るのだから。だから、これからね、また、これからほら、まだまだ、おかげいただかんならんとじゃろが、あんたの身体は。だから、本当に、おかげを頂かなきゃならんから、こりゃもう、あの、嘘にでん良かけん、有り難うございますばいわにゃいけんよと言うような意味のことば言うて話したんですけれどね。それと同じようにです。お互いが、ほんなら、頂いておるおかげですらも、おかげと感じきっていないような向きは、ありはしないだろうかという事。ね。先ず、頂いておるおかげをおかげと認識さして貰うて、そこから、お礼の信心が出来、神恩報謝の信心が出来て行くうちにです。段々、信心の味わいが出来てきて、信心に命をかける。いや、信心は命以上と。もう、それこそ、もう、金光様と言うたら、もうあっちはぼうけてござると言われるくらいの所まで、信心を高めていくところから、ね。神様のお手引きを受ける事が出来る、感も強うなるだけではない、そこに開眼のおかげを頂いた時がです。本当の意味においての、信心開眼であります。ね。そこに、開眼するんですから、今までおかげではない、いわゆる、氷山の一角だけをおかげと思うておったのが、根には、まあだまだ、このように素晴らしいおかげがあった事が分かるようになる。それが分かるようになると、本等の信者だと仰るのですから。本当の信者といや、難しいけん、もう、このくらいでと言わずに、やはり、それに挑むというか、それにね、昨日の、エベレスト電気じゃないけど、私は後から、高橋さんに聞かせて頂いたら、おかげ最高峰という事。あれはあーたもう、世界の、世界最高峰だそうですね。エベレストという山は。私は、それは知らなかった。なるほど、御理解に頂いたようにですね。やっぱ、そうであった。現在合楽で言われておること、それを行じて行うなら、しかも、このようにみやすう道付けていただいて、誰でも、その気になりゃ、出来るほどしの信心が、いうなら、最高のおかげに、繋がることのできるほどしの、今、信心を現在頂いておると、合楽では。と、昨日頂きましたようにね。今日のご理解のところも、先ず、ほんなら、頂いておるおかげをおかげと、先ず分からしてもらう信心。ね。ね、おかげをおかげと分かったらです。お礼が、まあだ、本当に足りないことに、第一気が付きます。ね。頂いておるおかげに、本当に、えー、おかげを感じさせて貰う信心。ね。そこから、目に見えないおかげを頂くという事にはです。それこそ、恋は盲目と言われるくらいに、信心は、ある意味において、盲目になるくらいのです。一生懸命のものが出来たときに、初めて、その、盲目が、目が開ける。開眼する。ね。そこから、あれもおかげ、これもおかげと分かるようになる。そうなれば、私は、ここで、真実と書いてあります。真実の信者じゃと。その真実の信者を目指さなければいけません。どうぞ。